理由のないマゾヒズム
莉子は大学生になったばかりだ。
ぴかぴか輝く女子の王道を歩んできたとは言い難い。莉子はずっと、メインカルチャーの外側に居る。
耳に無数に突きさされたピアス。口内にも鈍い銀色がのぞく。
腕には、白い傷跡が幾筋も残っている。
「可愛いと思いませんか、こういうの」
傷もピアスも、莉子にとっては自分を飾るお気に入りのアクセサリーだ。
どこか愛おしいものを見るような表情で、彼女は語る。
自分の体を傷つけることには殆ど抵抗がないらしい。
狂気や、リストカッターが見せる寂しさはそこにない。
ただ当たり前に、自己の肉体を破壊しながら、10代の瑞々しい生命力で上書きする。
莉子の精神力は生半可ではない。
彼女がSMの道に足を踏み入れたのは、必然と言えば必然だろう。
望むのは「被虐」。ただし、ちょっとえげつないレベルの。
尖った外見とは裏腹に、莉子の目元はいつも優しい。
ときどき、はにかみといたずらっぽさがそこに混じる。
M女は、何かの理由があってM女になるのか?
単純に、好きだからそうあってはおかしいのか?
トラウマとか、破滅願望とか、そんな病理性が一個も無くても、莉子は成立していた。
ただ当たり前のように、被虐がそこにあった。屈託のない清らかさと共に。
彼女の人の愛し方
莉子は一人娘で、親元から離れたことは無い。
両親との仲は悪くないようである。
友達もそれなりに多く、男女分け隔てなく青春を楽しんでいる。
彼女が一つ持て余しているとしたら、それは性的な欲望と、好奇心の強さだろう。
「ほとんど毎日、朝と夜に一人でしてます」
手間のかかるロングヘアをきれいにまとめ、年齢よりも大人っぽくまとめたファッション。
ウエストはあまり見ないくらい細い。一方で胸はDカップあるという。
着くべきところに肉がついて、余計なところにはついていない…「今時の子」っぽい均整のとれたプロポーションを莉子は備える。
「我慢できなくて、結構いろんな人としました。でもあんまり良くなかったです。気持ちはいいんですけど」
気持ちいいのに、良くはない。その理由は単純だ。
マゾヒズムという嗜好である。
新しいものを受け入れる柔軟さと、若者らしい性欲とが混ざり合い、半ば何でもありになりながら、莉子は自分自身を制御しきれない。
やけになって、出会い系にも手を出す。そこで、わざと使い捨て同然にボロボロになる。
そんな自分を楽しんですらいた。
理由はよく分からないが、彼女は僕によく懐いた。
一緒にお茶を飲んでいても、あまりしゃべらない。僕は最初こそ気を使って話しかけていたが、やがて彼女は沈黙が好きなのだと悟ると、それもやめた。日常の雑談には莉子はさほど興味がないようだった。
それでも、時々は喋る。
「あの…」
「ん?」
「ビンタするのって好きですか?」
質問しているのは僕ではない。
沈黙を挟んで、思い出したように莉子が口を開くときは、いつもこんな調子だ。
莉子には、常識がどうとかはあまり関係がないようだった。白昼の喫茶店でいつもこんなことを言い出すのだから、僕はたしなめる側に回るほかない。
そうすると、また彼女は黙る。
僕達は何度か会って話したが、そこでは沈黙の時間の方が支配的だった。
静寂の時の方が、むしろ莉子は機嫌よく微笑んでいる。
「何を微笑んでるの」と僕が水を向けると、急に居心地悪そうにする。
しばらくすると、どうも目を見て話すのが苦手なことも分かった。
僕がスマホを片手に、大した興味もなさそうに話を向けた時は、莉子は喜んで話した。
まるで、ぞんざいに扱われたほうが嬉しいかのようだった。
僕は無口な彼女の内面をそれほど知ろうとはしなかったし、彼女も僕の事を聞こうとはしなかった。
言葉の通じない外国人みたいなコミュニケーションになることもあったが、お互いの所作からしたいことは想像がついたし、それで十分だった。
傷だらけになって救われる何か
ホテルの一室で、彼女は粗雑に、乱暴に扱われる。
痛みを、苦しみを求めて、飲み干す。
そこにあるのは、SMプレイの名を借りた、存在否定のようなどぎつさがある。
僕は、彼女の好みに何も言わない。
たぶん、SMでも、凌辱でもない。
名前のついていない空白地帯に、莉子の性癖が存在する。
「傷、つけてください」
莉子が望むのは、体の傷なのか、心の傷なのか。
もっと。
もっと。
足りない。
優しさなんていらない。
与えてほしい。
ただ生きていくことに、必死になれるような傷を。
誰にも理解されないまま、伸ばした手は、何かを掴むのだろうか?
それとも、無残に踏みつけられて、終わるだろうか。
後者の方が似合うだろうな、と僕は思う。
どうやっても届かない光でも、そこに見え続けている限り、いつかは手にするかもしれない。
そんな頼りない希望だけが、莉子をギリギリで救っているように見える。
闇の中に、沈んでしまわないように。
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