SMは救いになるのか?依存と孤独、寂しさの行方

自罰的M女(アーカイブ)

それをSMと呼ぶかは分からないが

肉体を介したコミュニケーションの方法は実はそんなに多くない。SMというのは男女が裸になりながらも、その先に挿入が無くても成り立つ珍しい文化である。
SMという言葉の意味は様々な定義づけがある。wikipediaにあるような “狭義のSM” から始まり、人によってさまざまに範囲が拡張、解釈されて語られている。意味があいまいすぎるため当ブログでは”諸々ひっくるめて扱いますよ”という宣言をしている(もっと一元的な意味を与えようと試みた記事もある: ”どこからMなの?SMとノーマルの違いをシンプルに判断する方法”)
前置きが長くなったが、言葉の曖昧さに任せて掘り下げられるのはSMの利点でもある。
以前、” 自罰的M女 ” という概念を作って書いた。
楽しみとしてのSMをしている人の他に、自分の気持ちを吐き出したり、整理をつけるためにSMをしているM女が居る、という話である。
もう少しかみ砕くために、自罰的M女の一例ともいえる体験談 ” 花菜 ” を例にとって見てみよう。

セックス好きが見た孤独と、逃げ場所

花菜は明らかにセックス好きの部類に入る女であるが、一方では性欲に負けてしまう自分を嫌っていた。
彼女をしばらく見ているうちに、僕はある違和感を感じた。それは彼女にとっておそらく、SMは本質的な性癖ではないんだろうな、ということだ。嗜好とは違う、いわば嗜癖…ただの逃げ道としてSMを選択しているように見えたのである。
「SMという皮を被れば、そこで性の穢れを受けないまま、性の快楽を享受できる」
男女の情交は彼女にとって一種のトラウマであり、避けて通りたいものに違いなかった。しかしながら、捨て難い快楽が必ずセットでそこに転がっている。それを素通りできるほど、彼女の心は強くはなかった。
SMの完結は本来射精とは無関係だ。痛みの授受。それだけがSMという性癖の全てだ。挿入も射精もされないが、代わりにお仕置きとしての快楽を受け取ることができる。裸になり、鞭を受けることで溜め込んだ ”マイナス分は、快楽を受け取ってもいい気がした”

受け取りっぱなしではないから、辛くない。いい思いばっかりしているわけではないのだから、罪悪感だって軽くなる。
マゾとして引っぱたかれたときに彼女が見た光は、隠されていた欲望に目覚めた喜びではなく、これならいいんだ、という逃げ道を見つけた嬉しさである。

これは中毒の対象が変わるようなもので、決して健全とは言えない。乗り越えるべきものを乗り越えず、SMという回り道で誤魔化そうとしているに過ぎないのだから。

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回り道をいつしか自分の進むべき道と勘違いしてしまう

実は、私との関係がある間、彼女は並行して「彼氏」が存在していた。(しかも結構真剣に、結婚を考えていた)

私は別にそれが嫌だったわけではないが、不健全さは感じていた。彼女は、彼氏に隠している部分が多すぎたからである。
過去の歪な性体験、そこから湧き上がるコントロールできない不安。その一方で啼く体、インスタントに愛されたいし、気持ちよくなりたい低俗な欲求。

汚れないまま表面的に傷ついて、マゾヒストとしてへりくだることで、彼女は後ろめたい感情を意識しないまま、満足することができていた。
最初はそれでよかった。が、次第に欲求がエスカレートしていってしまった。
私のすべてを、受け入れてほしい。
きたないところも、ぜんぶ。

発言が刹那的になり、あれほど嫌っていた性的欲求に弱い自分が、いつしかオープンになっていた。

私は彼女の話を聞きながら、そういう相談は彼氏にしてみてはどうか?と冷たく言った。
一番の理解者は、人生を共にするパートナーであるべきだと思ったのである。

私にしか言えない。その気持ちも理屈は分かる。ノーマルに生きてきた彼氏はそんな思いを理解してくれるとは思わないし、変にぶっちゃけて関係が変わるのも嫌だろう。

ただ、将来を決めているのなら、いずれはトライしなくてはならない。

乙女心のような何かを考慮して、私が彼女の寂しさをコントロールしたとしても、長い目で見ればそれは悪い方向にしか行かなかっただろう。
彼氏に見せるのは、キレイなままの自分。ご主人様に見せるのは、その他全部。

これは、あまり良くない。不安な時、安心させてくれる相手は、一時的な存在であってはならない。
私にとってできることは、「手に入らないよ」という答えを突き付けることだけだった。結果的に、それが最後の躾になったとしても構わなかった。

SMの先に何があるのか

この話のポイントは、やはり将来を共にしたいと思う「彼氏」の存在なんだと思う。
悩みや弱さはを隠すためにSMをするのは良くない。正確には、隠すためにしたっていいのだが、隠し続けるためにしてはいけない。
SMプレイは、慢性化した寂しさや、空虚さの解消にはならないのである。
抜けられない寂しさの出口は、実はSMそのものではなく、もうちょっと先に在る。僕としては、その先にある少し楽な世界まで連れて行ってあげたいという想いがある。
時々SMを「卒業」するM女がいるが、彼女たちは寂しさの先に何があるのか、理解した人たちなんだと思う。
この考え方だと、そもそも楽しみのためにSMをしている人は卒業なんてしないことにも説明がつく。
何だかまとまりがなくなってしまったが、この辺でいったん終わる。「寂しさ」に焦点を当てた記事をいくつか書く予定である。

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