器用な女
夏、何もしなくても息切れしそうなほど暑い空気の中を歩く。
きつい日差しに顔をしかめながら、待ち合わせ場所近くの木陰に入り、少し待っていると、小柄な女性が現れる。
「こんにちは。はじめまして」
こうして書き起こそうとしても、彼女…由奈との会話の印象はあまりない。
実際に大したことを話していなかったのだと思う。
由奈は女性としては無口で、自分のことは語らない。
加えて、感情のようなものをほとんど口にしない。
「どう?おいしい?」
「…どうでしょう。あまり分からないです」
近くの喫茶店に入った後、色とりどりのフルーツが添えられたケーキを口にしながらもこんな調子なのだ。
それでもなぜか、心理的な距離は遠くないことが分かる。
彼女は何か不思議な共感力のようなものを持っている。
「食べきれないので、半分食べませんか?」
「じゃあ頂こうかな」
苦笑いしながら僕は答える。
フルーツケーキは運ばれた時の1/4ほどに減っていて、わざわざ分けあうような量とは言えなかったが、気持ちを頂こう。
手元に目をやると、ずいぶんと細長くなっている。
普通ならケーキは「先っちょ」から食べていくように思うのだが、由奈はフルーツを切るためのナイフを片手に、縦に分割するように切って食べる。
彼女は小皿を引き寄せ、ケーキを切り分けようとナイフを持つ。
僕が目を丸くしたのはその直後だ。
さらに縦に半分に切ったのである。
「ずいぶん器用なんだね」
「…?」
「そう綺麗には切れないよ。ふつう」
ナイフとフォークで、ハリボテのように薄くなったケーキを持ち上げる。
「普段メスを持っているので…。あ、倒れちゃった」
由奈はちょっと悪戯っぽい声色で、初めて微笑んだ。
ケーキはもともと空中で裂けそうなっていたくらいだから、新しい皿に着地した後、当然のように倒れた。
会う前のやり取り
由奈とのやり取りも紹介しておく。
ハルトさん、初めまして。由奈と申します。~中略~
私は何人か異性と付き合ったことはあるものの、長期的な関係を築けずいずれも1年ほどで別れています。これは私が相手を信頼することができなかったためだと考えています。色々とこんがらがった要素があると思うのですが、父親との関係性が影響しているかもしれません。相手を好いて良い人だと思ったから付き合ったはずなのに、機嫌を損ねたら怒鳴られるかも、自分が優位に立っていなければ搾取されるのでは、といった恐怖を拭い去れず自分から相手に甘えたり関係を深めることができませんでした。ひどいことをしてしまったと反省していますが、性交渉も最後まで行なった経験がありません。いつか克服して、相手を信頼できるようになければならないと考えていました。
色々教えてくれてありがとう。
性的な悩みは人にはなかなか言えないもので、一度抱え込んでしまうと、そのあともどんどん増えていって余計に言えなくなります。~中略~
何も考えないで、つらつらと書いたままで結構ですから、話してみてください。
何も考えずに今思っていることをそのまま書くと、辛いし不安で罪悪感があります。全部特定の何かが対象というわけではなさそうで漠然としています。消えたいとか死にたい、ではなく自分を処刑したいというような感覚に近いです。
明日も朝早いのでもうそろそろ寝なくてはいけないですが、朝起きるのが怖いので眠りたくないです。
正直、いま自分が感じていることにフォーカスすること自体が苦痛です。
もしかして、何かお薬を飲んでいますか?
抑うつ状態で精神科にかかっています。
気力が湧かなすぎて仕事にも行けない感じだったので…
言っていなくてごめんなさい。
そうだったんですね。
ゆなさんの場合、性的な話の前にメンタル不調の方が悩みの中心でしょうから、少し詳しくお伺いしたいという気持ちもあります。でも、そこに目を向けようとすると辛いとのお話もあったので、この手の話は避けた方がよいのかな…とも思っています。
メンタルに関してはあまりお話しできそうなことがないです~中略~
正直、私は根本的な解決というよりも対処療法的なものを求めて連絡したと思います。
メンタルが落ちた状態だと全ての娯楽を娯楽と感じられなくなって辛いか無かだけの世界になるじゃないですか。
私の場合性的満足だけは何とか残っている状態だったので…
メンタル不調は、特にトラウマがなくてもなる時はなりますね。
~中略~
対処療法的に足りないものを足すというアプローチは白いゾーンでも提唱している概念です。
仰る通り心地よい経験をすることがで類似の効果が得られます。性的な快楽や高揚感もその一つです。
これを最優先としてよいかはまた別の話ですが。
お聞きしたいのですが、逆にハルトさんは、私とやり取りすることを通じて得るものはありますでしょうか?
率直に、ハルトさんの時間をいただいて自分だけが相談に乗ってもらっているという状況を申し訳なく感じたため質問させていただきました。
やり取りすることを通じて得るものがあるか?という質問は、実際にはあまり意味が無いように思います。
未来のことはだれにも分からないからです。
なので、僕はこのような問いに対してはいつも「自分がそうしたいかどうか」を考えます。
自分が決めらるれのは、自分の気持ちくらいしかないですから。
僕は今現在、由奈さんとやりとりをしたいと思っています。
話していると、由奈の返事は急に途切れた。
新着メッセージが鳴ったのは何日か間をおいてからになる。
返事がおそくなってしまってごめんなさい。仕事が忙しかったのと鬱すごくて返信する余裕がありませんでした。
一回対面でお会いすることってできますか?
この後は、冒頭に示した通りである。
あまり性的な話もせず(性体験がない段階であれこれ聞いても仕方がない)
個人的な話もしなかった。
したくなかったのかもしれないから、僕はそれ以上は聞かなかった。
メッセージでも、会ったあとも。
暗闇の微笑み
ホテルに場所を移しても、相変わらず大した会話は無かった。
そのぶん体の触れ合いがたくさんあった。
ボディランゲージという言葉の通り、声に出さなくても意思疎通に問題なかった。
暗闇の中で、由奈を膝まづかせる。
体に指が触れると、急激に息が上がる。
はっ、はっ、と過呼吸気味に胸を上下させる。
「興奮してるの?」
「…怖くて」
「怖いと、濡れるの?」
秘部に手をやると、ぐっしょりと濡れている。
由奈は”初めて”だったけど、僕の言うとおりに体の向きを調整してくれたりしたので、かなりスムーズに卒業した。
その前も、そのあとも、彼女はずっと抱き着いて、密着していた。
唐突に彼女がいう。
「殴ってください」
「…抱き着いたままじゃ無理だよ」
会話はそこで終わったが、暗闇の中でまた悪戯っぽく微笑んでいるに違いなかった。
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