彼女につけられたラベル
「私は、Mなのでしょうか?」
ある日、相談用メッセージボックスの中に、澪と名乗る女性からメッセージが届いていた。
それは、私がMなのか教えてほしい、という内容で始まり、続いて幾つかの「Mかもしれないと思う」エピソードが添えられていた。曰く、自分は人に尽くすことに喜びを覚えている。主従関係という言葉は近い気がするが、いざSMブログを読んでみるとギャップを感じてしまう。ハルトさんはどう思いますか?
僕は彼女がしたためた文面を何度か読み返し、しばらく考えてから返事を書いた。
「エピソードを読む限り、無理に主従やSMという言葉に当てはめる必要はないように思います。単純に、相手を慕う気持ちが強い方なのでは」
SMブログの管理人からくるメッセージとしては、何とも味気ない。
澪がもしも「Mと言ってほしい」という内心でいたなら、僕の返答を読んでがっかりするだろう(何だかんだ言って、SMブログにはそういった役割も求めらている)
しかし、彼女の疑問は純粋に客観的な意見を知りたいという雰囲気に思えたので、僕はそのまま送信ボタンを押した。
澪からの返事はすぐに届いた。
「慕うという観点はなかったのですが、言われて腑に落ちました。ありがとうございます」
そんな内容の事が、論理的かつ丁寧につづられていた。そのまま、時間を空けて数度のメッセージのやりとりをした。
話すうちに、彼女は精神的な病を抱えていることを打ち明けてくれた。
病状を詳しく述べることはしないが、端的に言えば希死念慮と離人感の強い人である。希死念慮?離人感?いきなり難しい言葉が出てきて面食らうかもしれない。かみ砕いていえば、それぞれ「死にたいという気持ち」「自分のことを自分のことでないように感じる状態」を指している。
こう表現されると、何だか自分にも当てはまるぞ、と感じる方も居るのではないかと思う。これは「メンヘラっぽい」人に共通しやすい特徴なのである。
澪は子供の頃から、暴力的なまでに自分を責める衝動を抑えることが出来なかった。大人になるまで自分をすり減らしながら、どこかで何とか蓋をしながら、生きてきた。
そして、異性と性的に関わることを知った頃、SMという非日常が彼女の中に組み込まれた。それは、彼女の中の衝動を消化してくれる何かだったのである。どうしようもない感情は、もっと強い感情をぶつけることで飼いならすこともできる。強い感情とは、痛みと恐怖。
そう。
一部の人にとって、SMは「死にたい」の疑似体験である。
誤解を承知で言う。
別々に動く心と体
澪との話は弾んだ。そこには彼女特有の問題と悩みがあり、不安があったが、彼女は上手な文章で僕に伝えた。ある時、澪は言った。
「尽くすことが喜びという気持ちは、相手に必要とされたいという気持ちの裏返しなのかもしれない。だから私は従者のような立ち位置が好きなのかも」
僕はこの文面を見て、違和感を感じた。
そして、質問をした。
「澪さんは死にたいと思っているのに、必要とされる喜びを求めているのは、どうして?」
間もなく彼女は、分からないですが、と前置きしたうえで、自分自身の考えを述べた。
返信は、今までの彼女の文章とは全く違った。
難解な心理学用語を並べ、いかにもそれらしく書かれてはいたが、論理性は失われ、流麗さはどこにもなかった。
自分自身の感情と、実際に取っている行動の違い。
それを彼女は結び付けられなかった。考えること自体、負担だったのだろう。壊れた、読みにくい文章だけがそこにあった。
僕は不穏な雰囲気を感じた。深く突っ込んで、彼女の病に悪影響は与えたくない。話題を切り替え、話しやすいであろうSMについて水を向けた。
結局、切り替えた後の話は彼女の興味を大いに引いた。
「すみません、話しているうちに、私の方の興味が強くなってしまいました」
最終的に、澪はSM体験を希望した。
実際に会うまでにはいくつかの問題があったが、最終的には彼女の強い気持ちを受け取り、僕は会う事を承知した。
話す彼女の違和感
待ち合わせの日、彼女は時間通りに来て、少し遅れた僕をしおらしく待っていた。
こんにちは、とあいさつを交わす。
彼女は想像よりずっと自然体に見えた。強く緊張した様子もなく、無難に人当たり良く、僕と話した。
近くの喫茶店へ移動し、紅茶を飲みながら話す。
整然と話す彼女からは高いコミュニケーション力を感じた。同時に、話題はなかなか多彩だった。僕はその教養に素直に感心した。
少し気になる部分もあった。
時々、話している内容と、仕草が合わないことがあった。
声色は楽しそうなのに、どこか無関心な雰囲気を見せたりした。僕が好かれていないから、というわけではない。
彼女の感情と、口をついて出る言葉は、時々リンクしていないようだった。
印象に残っているのは、ふいに話題が途切れたときの事だ。
にこやかに談笑していた僕たちの間に、ほんの数秒の沈黙が舞い降りた。それは珍しくもなんともないひと時だった。
たまたま、お互いがひとくち紅茶を飲むタイミング。
僕はカップを置いて彼女に語り掛ける。
「そういえばあの時…」
すると、彼女はまるで初めて話しかけられたかのように、びくりと体を震わせた。そんな風に、澪の心は、たまに澪の体を置き去りにしていた。
今回、どうして体験に応募してくれたのか?と聞くと、病気の事もあるのですが…(注:離人感)と前置きしたうえで、彼女はこう言った。
「気づきが欲しいんです。自分が何者なのかの。これから生きていくのに役立つ、自分の知らない自分を知りたい」
気持ちよくなることは、もちろんそれはそれで好きだけど、目的ではないんです、深い快楽は、ある程度知っているから。
そう言って、彼女はまた紅茶をひとくち飲んだ。
喫茶店での時間は、彼女の緊張を解くのには十分だったようだ。
2杯の紅茶と、1杯のグラスの水が無くなったころ、澪はお手洗いに立ち、戻ってきてから
「体験、します」
と、はっきりと言った。
M女の記号
僕達はホテルに移動し、コートを脱いでいた。
道すがら、澪は主従関係への憧れを何度も主張した。
よくよく聞いてみると、それは主人に奉公するメイドのようなイメージだった。現代の世の中では成り立たない。創作物の中にだけ存在する関係性。そこには明確な役割があった。男女の愛でも恋でもなく、ただの役割だ。
人の役に立つことが喜びです、と言った彼女の理想がそこにはあった。
僕はその妄想に付き合う。
セクシュアルな雰囲気は全く出さず、クラシカルに、主従然として振舞うSMプレイをスタートする。
澪に床に座るよう命じ、お決まりの挨拶をさせる。
彼女はきちんと手と額を床につき
「よろしくお願いします」
とあいさつした。
それは中々様になっていた。
今度は桶に湯を張って持ってくるよう命じる。
澪がそれを用意し、僕は足を洗えと申し付けた。
彼女は素直に、そして喜んで従った。
「してみたかったんです、これ」
妄想していたシチュエーションの一つなのだという。
普段の生活で、相手の足に手で触れることなどない。
ましてや、自身は床に座って、相手はソファの上に居る。
この状態は、M女の内側に潜む従属心のようなものを、強く刺激するらしい。
「きれいになったか?」
僕は問いかける
はい、と澪は答える。
「じゃあ、舐めて確かめなさい」
危ういバランスで釣り合っていた天秤を、傾ける。
かりそめの従者ではなく、M女としての澪をつつく。
精神的に下に見られ、物理的に見降ろされることを好む、倒錯的な性癖。
そのまま、床に転がされ、足蹴にされる存在になりたいと、彼女は願う。
服は邪魔なので、下着姿になれと言うと、まるでそうするのが当然とでも言いたげに、澪は素直に応じた。
そして、嬉々として、足の指にしゃぶりつく。
「ほら、俺の足を動かすな。お前が動くんだよ」
僕は、手で足を持ち上げようとした彼女を叱る。
そのまま、ゆっくりと彼女の頭を足裏で押し、転がして仰向けにする。
この状態で舐めようとすれば、必然的に顔の上に足が乗る。
「あっ」
足裏で視界を覆われた瞬間、びくり、と澪の体が跳ねる。
「ああ…ありがとうございます…」
見慣れた、M女の反応。
なのに、僕は違和感を持った。
どこか演じているような声色だった。
「こうされたいと思っていたんだろ?」
「はい、ありがとうございます。嬉しいです」
試しに問いかけてみて、僕は確める。
ありがとうございます、は何に対する礼だろう?
「M女という役割を任された」ことに対してだったりしないだろうか?
気持ちと、体のスイッチは入っているのは間違いない。
だが、澪の真ん中と僕の間に、何かもうひとりの誰かが挟まっているように感じた。
スパンキング
しばらく足で澪を嬲り続けたあと、僕は彼女に下着を脱ぐように命じた。
足を舐めて、踏まれて、なぜ濡れるのか?
理由はM女だけが知っている。
僕が知っているのは、そのタイミングだけだ。
四つん這いになるよう指示し、秘所をこちらに向けさせると、果たして予想した通り、澪の股間はべったりと濡れていた。
僕はそれを罵る。
汚い、と。
普通の女の子なら、ショックで二度と裸を晒そうと思わないかもしれない。
そんな、酷い言葉をわざと選ぶ。
ひく、と穴が縮んだ。
同時に、ばしっ、と平手で目の前の尻を叩く。
音に続いて、澪はぶるる、っと体を震わせた。
「ああ…ありがとうございます」
また、少しの違和感を感じる。
M女らしい反応には違いない。でもどこかで、演じているような印象がある。考えて、選んで、口にした言葉なのではないか、と。
叩くたびに、まるで愛撫されているかのように、甘い声が漏れる。
使用人として使われ、肉体を貶され、女として蹂躙される。
今、澪が夢想した「理想のSM体験」が目の前で実現しつつある。
だから、このまま続ければいい。
僕に求められる役割は、それで正しい。
でも…
ふと僕は思いなおす。そして、今までと比べ物にならないくらい、強く尻を叩いた。
程よい刺激ではない、明確に痛みを与えるレベルで。
ビクビクと痙攣する動きが、止まらなくなっていた。
ただ、その質は変わっている。
甘えた声を出していた今までとは対照的に、澪は無言になっていく。
気持ちいいか?と僕はその背に問う。
「はい…」
答える声のトーンも、明らかに違った。
演じているかのような違和感が減り、ダイレクトな感情が見え始めていた。
返事をするときにちらりと傾けた顔を、僕は見た。
口元からは涎が垂れていた。
目も、うつろだった。
表情だけではない、彼女の股間も反応していた。
粘りけのある液が糸を引き、重力に従って伸び、ぽた、っと床に落ちた。
叩くたびに蜜が溢れた。
感度が増した自分の体を味わうように、澪は快楽に没頭していた。
ぽたり、ぽたり。
細かい雨粒が寄り集まって、大きくなって窓を伝うかのように、愛液の雫は幾度となく滴り、床を濡らした。
「はしたない」
声をかけられると、澪の穴はまた、ひくっと縮まった。
「ごめんなさい」
また、少し顔を傾けて答える。
涎の跡と一緒に、彼女の頬が一筋濡れているのに僕は気がついた。
言葉で言えない何かが、その光景に表現されていた。
澪の内側から何かが押し出されて、涙に変わったかのようだった。
彼女がSM体験したかった理由
僕は毎回、葛藤する。
体が温まり、心をついに開こうとしているM女に、どう接するべきなのか?もっと直接的な愛撫に移り、未体験の快楽を与えるべきだろうか?
おそらく、それはうまくいくだろう。
澪にとって、僕との「SM体験」は、最高に気持ちの良かった、いい思い出で幕を閉じるに違いない。
あるいはこのまま、スパンキングを続けようか?
それでもいい。
SMらしい、非日常を体験して、それが心地よいものだと知る。
やっぱり、私はMで、このSMという世界で合ってたんだ。
それは一番始めのメッセージに対する答えでもある。疑問は体験という形ではっきりと昇華される。これも正解のひとつだろう。
だが、直感が僕の考えを肯定しない。
その二つのどちらかなのか?いや、もっとずっと大切な何かがあるのではないだろうか…。
澪は一体何を求めて、顔も知らない、見ず知らずの男に体験など申し込んだのだろう?
想像を超えるような快楽のため?理想のSM体験のため?
「自分の知らない自分を知りたいんです」
脳裏に、言葉がよみがえる。
彼女は、もがいている。
暗いトンネルを抜ける手がかりを。
どん詰まりの自分を、変えるきっかけを。
道に迷い、行き止まりで座り込んで泣く少女に必要なものは何だろう?
飴やお菓子を与えて、ひとまず泣き止ませることだろうか?
それとも、言われなければ気づきもしないような、荒れ果てた獣道を示し、ここにも道があるよ、と教えてやることだろうか?
涙
「玄関から靴ベラを取ってきなさい」
彼女は沈黙した。
それが何に使われるかはすぐ分かったようだった。
「早くしなさい」
僕が命令すると、彼女はおずおずと立ち上がり、言われた通り玄関へいき、戻ってきた。
重く、厚みのある靴ベラを受け取る。
僕は、もう少し薄いほうがよかったなぁ、などと考える。
重いければ気を使う。衝撃の量が大きくなりすぎないように、力の方を調節しないといけない。肉の薄い部分は特に避けなくてはいけない。
努めて冷静に考える。
追い込むけれど、壊してはいけない。
澪に後ろを向かせて、スパンキングを再開する。
びしっ、と硬質な音が響く。
「っ…」
澪の様子が変わる。
ビクンと震える。今度は、快楽にゆるむのではなく、痛みに硬直して。
ぴしぴしと、叩き続ける。
少しずつ、力を増していく。
「痛い、ですっ…」
詰まった息を吐き出しながら、澪がいう。
掌で叩かれている時のように、痛みを快楽に変換する能力は、もう追いついていない。
苦痛の色が濃くなり、彼女の中の境界線を超える。
耐えるだけ。
何も、澪にとって嬉しいものは与えられない。
ここからは「SM」だ。
加虐と、被虐。
踏み入れていたつもりで、まだ彼女が知らなかった世界。
びしっ
叩かれるたびに、ハッ、と大きく息を吐き、そのあとはハァハァ、と荒い呼吸をする。
痛みが、皮膚から入り、体の中を通り抜けて呼気となって抜けるまで、彼女の思考を支配する。
苛まれる。
他の事を考える余裕もなく。
「痛い、です…」
澪が口にする言葉が、変わる。
僕は何も答えず、一定間隔で叩き続ける。
中断はない。
この痛みは、終わらずに続くのだと、彼女に無言で告げる。
強さも、少しずつ増していく。
「痛い、痛いっ」
余裕が消え失せ、思考が感情に変わっていく。
演技めいていた澪の「主従」が終わる。
体が、痛い。
私の体が、痛い。
もうずっと、叩かれている。
これは、私がコントロールできる痛みじゃない。
普段、絶対に追い込まれることのないゾーンに澪は押し込まれる。
逃げ場もなく、袋小路に追い詰められてなお、痛みが襲ってくる。
考える余裕はもう、無い。
「あーっ、痛いーっ!」
澪は叫び出す。
「ああっ、ああっ、痛い、ああっ」
言葉が意味を成さなくなっていく。
痛み自体が、排出されない。
消え失せる前に、次から次へと注ぎ込まれて、ぱちぱちとした火花に変わる。
思考を押しのけて、溢れていた感情が全て押し出されて、こぼれた。
「わああっー!」
澪が、泣き出す。
声を上げて。
「ああ、あああっ。あうっ、えぐっ」
唐突に、大量の涙がこぼれだす。
痛みをこらえきれず、しくしくと泣き出しはじめるのとは違った。
まるで舞台を覆っていた分厚いヴェールが突然すとんと落ちて、裏に隠されていたものが全て露わになったかのように、さっと空気が変わった。
それは、不連続な変化だった。
劇的で、猛烈な涙だった。
…もしかして、今まで泣けてなかったのか?
そう声をかけると、澪の嗚咽は、更に激しくなった。
それが、彼女の返事だった。
スパンキングをやめ、そっと触れると、澪はその場に崩れ落ちた。
「痛かったら、泣いていいんだよ」
許可に安心したかのように、彼女の心を堰き止めていた壁が崩れさり、嗚咽が号泣に変わる。
僕は彼女を頭を撫でたり、背中をさすってやったりしながら、ただ近くにいた。
澪は、そのままずっと、泣き止まなかった。
一つになった笑顔
結局、澪の「SM体験」は、そのまま幕を閉じた。
時間も時間だったし、もともと精神的にひ弱な彼女に、これ以上の負荷をかけたくなかった。
「ありがとうございました」
帰路についた僕たちの間で、別れの挨拶が交わされる。
微笑んだ澪は、声のトーンも、その表情も、きちんと一つになっていた。
最初に紅茶を飲みながら話したちぐはぐさは、もう無かった。
「…ずっと、泣いたことなかったんです。でも、泣いても良かったんですね。知りませんでした」
奥まった部屋に仕舞い込んだ子供の澪は、もう十年近く、ずっと一人で泣いていた。見張っていたのは、大人になった彼女自身。
自分を殺して、周りに愛想を振りまくたびに
傷つきながら、見ず知らずの男と寝るたびに
部屋の存在すら忘れて、知らない場所の、どこか遠くまで来ていた。
澪が求めた「主」は、すさんだ彼女の手を引いて、扉の前まで連れ戻してくれる誰かだったのかもしれない。
見捨てそうになっていた自分と、もう一度向き合うために。
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