小説: あなたの中の「いい子の水」

良い子の水を捨てること 調教って?

わたしのうちがわ

わたしの胸の中には、水の入ったコップがある。

透明で厚みのある、立派なガラスの器には
モラル、常識、貞淑さ…ありとあらゆる美徳という名の水が、なみなみとたたえられている。

みんなが、このコップを胸の前に掲げながら、歩き回ることを強要されている。
わたしは、こんなに立派で、善い人なんですよ。

そう周りに認知してもらえるように、きちんと、見えやすく掲げる。
ただ、わたし自身はあまり他人のコップがどうなっているかを気にしたことがない。

なのに、自分がなぜそれを掲げ、中身も立派に満たしているのか…
理由はよくわからない。

今まで、そう教えられてきたからだとしか言えない。
わたしは、忠実に守っている。

わたしを律する、すべてを。

わたしのなか

ご主人様の前にひざまづいているわたし。胸の前には、例のコップが掲げられている。

すでに溢れそう。
なみなみと入っている水は、縁から縁まで、ゆるく弧を描いている。
手が少し震えると、表面がぷよぷよと動く。

わたしは、ぴくりとも動くことができない。

なのに、ご主人様は言う。

「傾けろ」

傾ける?そんなことをしたら、こぼれてしまう。
ただ持つだけでもこんなに必死なの。

「だめです…できません」

わたしは抵抗する。
何故だ?とご主人様がいう。

「…それは、いけないことだからです。」

わたしもなぜダメなのかは分からない。
ただ、わたしの中の神様がそうさせている、というだけだ。

「いいか悪いかは、お前が決めることじゃない」

言われて、わたしは押し黙る。
調教のじかん。
わたしは、目の前の人の、従属物。

「やれ」

わたしは、泣きそうな顔になりながら、命令を実行する。
気持ちとは裏腹に、体が動かない。
傾けようとしても、ほとんど力が入らない。

ああ…

それでも、本当に、ごくごくわずかだけコップを傾けようとする。
縁に盛り上がっていた水が、さらに盛り上がる。
表面張力の限界を超えて、こぼれそうになる。

「命令だ」

わたしの葛藤も、罪悪感も、何もかもをすべて見透かし、ご主人様が戸惑いを断ち切らせる。
いままで大切にしてきたもの。
それを、捨てる…

心の中で、逡巡し、抵抗し、やがてすべてを諦める。
自分の判断の限界を超えている。
今まで持ち続けて来た「正しさ」の概念を主に明け渡す。

「命令だから」その言い訳が、本来できないことを実行させる。

手首の傾きがほんの少し増したとき

ついに、水がこぼれ始める。
縁が盛り上がり、側面を流れ、指を濡らし、手首まで伝う。

皮膚を濡らす冷たい水に、わたしは身震いする。
何でもない、当たり前の温度がとてつもなく冷たく感じる。

ぽとり。
はじめの一滴が、床を濡らした。

わたしのそとがわ

両親が、友達が、わたしに求めた純真さ。
「いい子だね。ずっと、そのままでいてね」
正しさが一体何なのかも分からないまま、そんな言葉で受け入れられたという事実だけを頼りに、守り続けて来た。

わたしの背が伸びるごとに「いい子の水」は少しずつ溜まっていった。
高校生くらいには、もう溢れそうだった。
わたしは誠実に、その水面を注視していた。
もう片時でも目を離したらこぼれてしまいそうにタプタプになっていた。

だから、ひたすらそっとしておいた。
それなのに。

ついに、やってしまった。
こぼしてしまった。

ずっとずっと、大切に守ってきたのに。

命令だったから、そういって従った自分が悔しい。
わたしを後悔が襲う。

もうだめなんだ。
わたしは、みんなの期待を守れなかった。
鼻の奥がツンとして、涙がジワリとにじむ。
あっという間に、こぼれる寸前まで溜まっていく。

「そのまま、全部ぶちまけろ」

ご主人様の命令。

こぼれて、無くなってしまう、わたしの全て。
大切にため込んで、見続けてきた今までのわたし。

涙が、ぼろぼろとこぼれてきた。

ひく、ひく、っと肩が震える。
顔をくしゃくしゃにして、不細工にゆがめながら。
こうなってしまうと、もう抑えきれない。
惨めで、哀れな自分が、余計に涙腺を刺激した。

ううう…ああ…

嗚咽を漏らしながら、泣きじゃくる
泣きじゃくるたびに、震えが水面に伝わり、波うった分だけ、水がこぼれ落ちる。

「捨てろ、と言ったんだ」

わたしは、全てをあきらめて、コップを傾ける。

一筋だけ伝って流れていた水が、連続した水流になり
仕舞いには、バシャ、という音とともに床にぶちまけられる。

思っていたよりも、コップは大きかった。
その中に入っていた水も、たくさんあった。

でも、今はもうカラだ。
全部全部、大切だった物が、すべて失われてしまった。

ご主人様が、そうしろと言ったから。

わたしのせいじゃない。

わたしの意志で捨てたんじゃない…

ごめんなさい…

涙が後から後から溢れ出る。

ご主人様は、女の涙にも動じることなく、わたしへ言葉をかける。

「軽くなっただろ」

そう言われて、気づく。
びしょ濡れの、わたしの指先が掴む、カラのコップ。
確かに、軽くなっている。

「むやみに持ち続けるから、他の何も持てなくなるんだ」

水面の高さ。それは、今までわたしが応え続けて来た期待。
いつしかそこから目が離せなくなり、支える自分の指先ですら忘れていた。

その先に、水の流れる先があることも。

びしょびしょに濡れた床。
剥き出しの脚。
わたしの脚が、水たまりに浸っている。

冷たい水に反応し、赤くなった肌。
脚、あったんだ。こんなところに。

濡れていて、とても冷たい。

けれど。

だた、それだけ。
恐れていたような何かも、劇的な変化も、そこにはなかった。

わたしの水

「そこに何を注ぐのかは、主である俺が決める」
「満杯になっていたら役に立たないから、そういう時は今みたいに捨てさせる」

宣言が下される。
その言葉で、はじめて気づく。
捨て終わった分だけ、また新しく持てることに。

「普段は、お前が好きに使っていい」
「また溜めるのも自由だ。その気になれば、すぐに元通りになる。なにせ、お前はいい子だからね」
「今日の調教は、これで終わり」

泣きじゃくり、過呼吸でしびれた頭で、主の顔を見上げた。

わたしは、もう溢れるくらいの水を入れることはできない。
最後の数センチは、ご主人様のために残しておかなくてはいけない。

数センチじゃ足りないかもしれない
いつか来るその日に備えて、わたしは余計なものを、捨て続けておかなくてはいけない。

カラのコップは、もはや両手で大事に持たなくてもよくなっている。
目のまえに掲げる必要もない。

立ち上がったわたしは、体の横に腕をぶら下げる。
だらんと、自然体で持つ。

立ち上がるのも、歩き出すのも、もう何も気を使う必要はない。
こぼれないように、そろりそろりと動く必要もない。

すぐに動けて、どこにでも行ける。

濡れた足元。
そこに視線を向けると、最後の一滴が、ぽとりと落ちて水面を揺らした。

びしょびしょの床。
水と涙が入り混じった、水たまり。
そこから、一歩、踏み出す。濡れた足が、新しく床を濡らす。
もう一歩。さらに一歩。
歩くごとに、点々と足の型をつくっていく。

踏みしめる感触が、だんだんと乾いたものに変わる。足の裏に擦れる熱が、少しだけ、温かく感じられた。

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