SMを題材にした映画
2015年公開のR15映画で、男女のSM的関係を描いた映画です。
ヒロインはアナという名のちょっとMっぽい、しかし性癖ノーマルの女子大生。アナはたまたまインタビューのために実業家グレイのもとを訪れ、お互いに惹かれあいます。グレイはアナを口説きにかかり、アナもまんざらでもない…のですが、完璧人間のグレイさん、性癖だけがひどくねじ曲がったSでした。
アナはそんな世界何も知らないし、なんかちょっと嫌なので葛藤します(笑)
とはいえ、そこは惚れた相手。SMプレイとは微妙な距離を取りつつも、だんだんとグレイの性癖に巻き込まれていきます。
グレイはドミナント(支配者)と名乗る
グレイのプレイルームに連れていかれたアナは、そこにずらりと並んだSMグッズを見て目を丸くします。
「サディストなの?」
「いや、ドミナントだ」
問いも答えも、全く単純ですが、ほとんどの人にとってドミナントという言葉は難解でしょうし、劇中でも突っ込んだ説明はありません。グレイはただただその名の通り「相手の全てを管理し、支配したい人」として描写されます。
当サイトにもドミナント、サブミッシブで検索をされて辿り着く方がたくさんいらっしゃいます。どこでそんな言葉を知るんだろう?と長らく疑問に思っていたのですが、この映画がきっかけなのかもしれないですね。
謎に満ちたグレイの影のある表情…ドミナントという存在に興味を持たせるには十分と言えそうです。
ドミナントという性癖ではなく、病理を描いている
前述のとおり、ドミナントという性癖が深く掘り下げられることはなく、次第に焦点はグレイの異常性に移っていきます。
何度も何度も「契約」をアナに迫るのです。
この契約というのは、ドミナントとサブミッシブ…平たくいうと、ご主人様と奴隷の関係です。ご主人様は奴隷の全てを把握し、管理し、いつでも使う…
ノーマルなアナはそんなもの当然理解できないので繰り返し問いかけます。
「契約って何?普通に愛してくれないの?」
「愛じゃない。契約さ」
のようなズレた会話もまた繰り返され、見る側はグレイの思考の不可解さに引き付けられます。また、アナはこうも尋ねます。
「契約すると、私は何が得られるの?」
「僕さ」
それって、普通の恋と何が違うの?
あなたは私を手に入れたくて、私はあなたを手に入れる?
ならば、愛せばいいじゃない?
どうして契約なんて必要なの?
アナの心の叫びは、彼に届きません。
グレイがなぜ契約にこだわるのかは、明確にされません。
しかし、最後の方で少しだけ、過去のトラウマを彼は語ります。
つまり、性癖としてSMプレイが好きな人…ではなく、何からの(悲しい)過去によってドミナントにならざるを得なかった…という描き方です。
このような背景が、本作を単なるSMポルノにしない深みを与えています。
アナはサブでもMではないけど、Mっぽさはすごい
狙ってやったのかはわかりませんが、アナの演技は結構すごくて、いかにも「Mっぽい」雰囲気を無言のうちに漂わせています。
序盤での出会いのシーン、グレイはアナに一目惚れするのですが、ここの解釈はSさんとノーマルで全く異なる部分だと思います。
ノーマルは…アナは思慮深く、美しい女性で、魅力に満ちているから惚れた。
Sは…一目でMとしての素質を見抜き、パートナーにしたくなった
という具合に…(笑)
その雰囲気通り、初めてソフトSMを体験するアナは恍惚感に満ち、ずいぶんといい反応を見せます。
一方で、プレイにそのままのめりこむことはない強い自制心も持っています。彼女はグレイの行為を受け入れているだけであって、積極的にSMに興味を持つことも、物語を通してMに覚醒することもなありません。
だから、基本的にはSMプレイを拒絶します。
一方でグレイは最初から最後までドミナントを貫き、二人は対照的な描かれ方をしています。
グレイの内心は最後まで明かされることなく、観客はアナの心情とオーバーラップしながら「どうしてこの人は、Sであり続けようとするの?」という疑問を持ち続けるでしょう。
グレイとアナのすれ違い
グレイはイケメンで金持ち、デートの作法も完璧、相手の好みに合わせたプレゼントまで贈る…など、ほとんど完璧に女性の理想を叶えながら、SMにこだわる変態性だけはブレません。
最後までこんな感じで、特にズレているのは「アナを愛しながらもアナからの愛は否定し、自身が彼女を愛していることも否定する」という点です。それは病的に見えるほどの拒絶とすり替えであり、異常さを際立たせています。
疲れ切ったアナと向き合うラストシーン。
愛してよ、という彼女に、グレイは変わらず
僕は愛の代わりに、支配と痛みを君に与える。
と言い放ちます。
ここで、アナは初めて自分からプレイを積極的に持ちかけます。
それなら、してください。
もちろん、彼女がSMプレイに傾倒したわけではありません。服を脱ぎ、なかばグレイを睨みつけながら、その空虚さの意味を彼に問おうとするのです。
したいなら、すればいい。
支配したいなら、支配されてやる。
グレイは表面上は動じません。ですが、聡明な彼はすでに分かっているでしょう。それでも、そうするしかないのです。
だから、傲岸に言い放つしかありません。
そこに伏せて、尻を出せ。
鞭うたれた回数をカウントしろ。
アナは望まないSMプレイの中で、屈辱と痛み、そして彼との溝に、涙を流します。
体は好きにできても、心が寄り添わなければ意味なんてない。
どうして、こんなことにこだわるんだろう。
どうして、グレイの心に近づけないんだろう。
深い愛情を伝えきっても届かないと知った時、彼女は離れてい、物語は幕を閉じます。
まとめ:SMと個人の事情
このように、本作はSMそのものを描いているわけではなく「SMプレイを題材にした」男女の悲恋を描いた映画です。
アナは結局はノーマルのままで、プレイを一時的に受け入れても、自身の性癖とすることはありませんし、グレイはグレイで「過去のトラウマゆえに問題のある人」という描写で締めくくられます。つまるところ、好きでしているのではなく、本質的な問題を覆い隠すためにSMが道具として使われている様を描いています。
二人がSMパートナーとなることは、最後までないのです。
そこにあるのは、ドミサブという虚ろな「状態」だけ。
途中、アナは母から
「幸せなの?」
と聞かれ
「たいがいの時はね」
と答えて涙する。
幸せじゃない瞬間の解釈は色々考えられます。
望まないプレイ、愛をくれないグレイ…
そして、最も大きな要因は、体だけ距離が縮まって、心の距離が縮まらないことでしょう。
愛する人のために受け入れるそのプレイが、時には悲しく感じられる。
リアルなSM的関係でも、時々見られる瞬間だと思います。Mは、Sの淋しさに触れつつ、ただ受け入れることでしか、それを癒すことが出来ないのです。
本質は恋愛
SMという題材はあっても、その裏に様々な本質が隠れていることは多いです。当サイトでも、このような問題に触れ、SMそのものを全面的に賛美する…という姿勢はとっていません。
ただ、自分を理解するツールにはなります。
もしもそういったことに興味がある場合、他の記事もご覧になってみてください。当サイトがあなたのお役に立てることを、心から願っています。
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