* この文章は体験してくれた未羽さんからの寄稿文です。
地雷系ファッション
私は、地雷系ファッションの現実離れした可愛さが大好き。
かつて、私には似合わないと拒絶したピンクやキラキラやミニスカートを自分のものにして、憧れていた2次元的な可愛さを遠慮なく叶えることができる。
リボンやフリル、ビジューの目立つ服。
ぱっつん前髪、姫カット、ツインテール。大きな涙袋、印象的な目尻のライン。
地雷系というカテゴリーは、可愛くない私が、可愛いを追求することの羞恥心を覆い隠してくれます。
人の容姿は本でいう表紙です。
目を惹かない表紙の本は開かれない。
興味すら持たれない。中身を見る前に切り捨てられ、あんな本は大したことないと言われる。
だけど、私の本質は外見にはない。私の頭の中には誰も見たことがないような世界があるのに。それを見て欲しいのに。
私は地雷系というカテゴリーに頼って可愛いを追求してきました。しかし追求すればするほど、外見ばかりにフォーカスされ、内面を見てもらうことからは遠ざかります。
どれほど努力しても私は地雷系女子という分類にしかならないのです。
このファッションで人と話をすると、「なんだか見た目と違うね。」と言われることがあります。
私はさまざまなことを考えます。
思考の力でどこまでも向かうことができます。
しかし、頭の中にどんなに大きな世界を持っていても、それが外から見えるわけではありません。
同じように、私は、相手の頭の中にある世界と交じわることはできない。
どんなに頑張っても相手の内面全てに触れることはできない、虚しいことです。
外から見て得られる情報は、本来その人のごく一部のはずです。
しかしながら、私たちはしばしば外見に基づいて内面まで評価されることがあります。
ルッキズム
ルッキズムと呼ばれるこの態度に、私は嫌悪感を覚えます。
自分の身体にコンプレックスを持つのは当たり前のことです。
どんなに内面を磨いてもなお気になる部分は当然出てくる。
鏡を見れば私の嫌いな部分は文字通り目の前に突きつけられる。外見に基づく評価は自分の嫌いな自分を相手に晒し、そこを無神経に突かれる恐怖を伴います。過去に心無い発言を受け、今なおどうしようもなく気になり続ける外見を、どうすることもできないまま、何も知らない誰かに再評価されることは残酷です。
内面と違い、外見は分かりやすく人々の目の前に晒される。もっとも、簡単に取り繕えるコンプレックスなら、とっくに気にならなくなっています。ルッキズムの無慈悲さは、たとえ努力したとしても、見た目が変わらなければその努力には見向きもされないということ。
一方で、私は時にルッキズムで安心し、ルッキズムに頼ることに甘んじます。
私は、大事な人と関わる時、外見に基づいて評価されることを逆手に取り、相手の好きそうな自分になりきります。
私と相手、一対一の関係に見えても、相手の意識の中には常に他の魅力的な人々がいます。私はそういう人々と競わされているのです。
その競争に丸腰で挑むわけにはいきません。
そこで、相手の好きな自分という皮を被り、武装して、少しでも優位に立とうとするのです。
素の自分のままでいるよりもずっと安心していられます。
しかし、相手がその外見を好むのは、私でない誰かを私に投影しているからだと考えることもできる。外見も内面も本来誰とも比べられたくないのに、結局誰かの代替品にしかなり得ない虚しさを感じることもあります。
依存という性癖
私は少しでも楽になるために、誰かに依存しようとしています。
依存というと不安な時に頼って、無くなると困るものをイメージされるかもしれません。
私の依存はちょっと違って、自分自身に相手を取り込もうとします。
相手を自分の中に住まわせて、常に頼りにし、生活の中で「あの人なら何て言うだろう。」「こういうとき、どうしろって言うかな。」と頻繁に考えます。
まるでご主人様です。
私の中のご主人様に考えや行動をお伺いし、それに従うだけで安心できます。
私にとっての依存とは、相手に染まっている状態なんです。
ある人に依存した時、私は相手を連想できるもので身の回りを固めました。
好きだと言っていた音楽を聴き、一緒に食べたものをもう一度買い、かわいいと褒めてくれた髪型で生活する。
そのような行動を習慣的に続けていると、やがて相手仕様にカスタマイズされた自分ができあがります。
このとき、自分自身に相手の色を感じられて、孤独がまぎれます。
自分の中に相手の痕跡を確認して安心するのです。
相手を鮮明に理解しなければ、私の中のご主人さまは喋ってくれません。
何らかのきっかけで相手のことがわからなくなれば、ご主人様の言うことはあやふやになります。
私は従うものがなくなり、すごく不安定になります。
だから、そういう人には依存できません。
私は外見には地雷系ファッションをまとい、内面にはご主人様を住まわせて、やっと安心して生きています。
私にはそれまで影響を受けてきた人、もの、ことがたくさんあります。
それらをすべて合わせて私ができています。
私自身を探したいとは思うけれど、そうやって、誰かの影響に基づくものをひとつひとつ剥がしていけば、私は無くなってしまうかもしれない。
でも、それは私が空っぽだということではありません。
今まで影響されてきたものたちと、無理にでも模倣しているロールモデルが私を構成する全てです。
私はそれをそのままの形で、私自身だと認めたいのです。
孤独を取り払うSM
私は孤独への恐怖感があります。
相手に依存して、相手の好きな自分になった時、自分は孤独ではないとやっと感じることができます。
ノーマルなセックスでスキンシップの不完全さに気づき、その後SMにまで手を出しました。
肌と肌が触れても、そこには皮があって肉があって血があって骨があって、どこまでも隔てられている。
身体をどれほど追っても、自分が欲している相手の心がどこにあるのかわからない。
身体という壁に阻まれて、心と心が直接交わることはできない。
それは、大好きな相手と交わることの障害。
いくら心を開いても、身体が蓋になる。身体はまるで檻のようで、死なない限り出られない。
そんな時にSMと出会いました。そして、行為を通して、身体を持つことの不自由さから少しだけ自由になれた気がしました。
言葉でぐちゃぐちゃにされた時、触れられたわけでもないのに心も身体も譲渡できた気持ちになったんです。
頭がふわふわして、何も考えられない時、自我が塗り替えられた時、身体という障害を越えて心で繋がれたなあって思える。
自分の身体がたとえ檻で、壁で、蓋だとしても、心が相手のものなら、もしくは、自分の心を相手を映す鏡として使えたら、相手の居場所を探して苦しむこともなくなる。時間も思考も領有されたい。全部。
相手と自分でひとつの生き物になりたい、相手の心に身体を介さず触れたい、相手の心を自分の中に引き込みたい。
これらを叶える手段として、自分の身体に相手の心を植え付ける。これが今のところ1番適当です。だからたまたまSMっぽいことをやっています。
そして、その逆、相手に自分を取り込ませることに私は臆病になります。
自分を相手に押し付けるということは自分の長所も短所も理解された上で、相手にとっての価値を見定められるということ。
相手の内側に入り込むということは、相手が今まで出会ってきたたくさんの人々と競争し、勝ち残らなくてはいけないということ。
私は嫌でも比べられる。
必要ないと判断されれば、私の気持ちは届かない。
適当な誰かと同列に並べられるかもしれない。
1番下に置かれて、私のことなんてどうでも良くなって忘れられるかもしれない。
1番上のその人には手が届かない。
仮にどれだけ私の存在が相手の中で大きくなったとしても、自分以外の人間を相手から消し去ることは不可能です。
だから一方通行でいいと思っています。
私は依存するけど、私には依存させない。
誰とも比べられたくない、ただ相手と自分だけという世界に浸りたいから。
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